最近TVやサイト等で良く目にする一文がある。
「初めての人に長文を送り付けるような、失礼な人」
こういう一文を見ると(聞くと)ガッカリする。メールやメッセージでこれをやるとダラメと言うのだそうだ。ダラダラの「ダ」と駄文をもじって作られた造語だそうだ。いつから日本はこんな風になってしまったのだろう。なぜこんな悪しき風潮がはびこってしまったのだろう? そしてその文を語った本人こそ失礼を通り越して人を傷つけている事に気がついてはいないのだ。
BBSやチャット、掲示板が盛んだった頃にもそんな風潮はなかった。短く端的な文が良しとされるのは紛れもなくTwitterやLINE、そして利益優先でそれに乗っかってきた企業の功罪であろうと私は考えている。
言葉で気持ちを伝えるのは実は非常に難しい。言葉のもつ意味やニュアンスが人それぞれに違うからだ。だが日本人は古より言葉というものを非常に大切に、敬い、扱ってきたはずだ。言霊。呪。言葉には力がある。そして文字にも。軽々しく状況を説明するだけの短い文をどうして良しとする風潮が蔓延ってしまったのであろうか。
先日新聞にAIの話が載っていた。AIは長文読解が不得意だと言う。しかし、今の日本の若い人はそのAIにも劣る長文読解力だと言うことが最近解った、というモノだ。
俳句は5-7-5の17音の中にあらゆるものを詰め込む、短い文だ。TwitterやLINEのそれとは雲泥の差で違う。考え抜かれ行間に意味を持たせ、言葉そのものに意味を持たせ、長文にも勝るとも劣らない描写を見せつける。
「初めての人に長文を送り付けるような、失礼な人」
と宣うものはえてして「文章が長くて気持ち悪い」「読む気にもなれない」「ウザイ」と言う。端的に言えば長い文に対して拒否反応を示しているという事だ。これは思春期によく見られる勉強をしようとしてたところに親から「勉強しろ!」と言われて反論するのに似ている。早い話が、実は心も、知性も、社会性も、まだ成熟していないままなのだろうなぁ。口語だけの意味のない本当にダラダラと羅列した文は疲れるが、それと長文は違う。長いというだけで拒否反応を示すのはそもそもが違う。本も読まないのだろうか。こういう人にたとえ短い文を送っても言葉通りの表面の意味しか読み解く事は出来ないのだろうなぁ。。
短い文章しか書けない人は長文なぞとても書けない。長文を書く人は、実は短い文章も書ける。しかも端的に、且つ行間に意味を込めて、しかし、考え抜いて。それでも長文になっているのには意味がある。改行や行間にも意味がある。そして何より伝えたいという気持ちがある。更に付け加えれば「読み手の技量が解らない状態では高等な事は出来ないだろうな」という想いもあるかも知れない。
もはやそんな事は昔のこととして追いやられ、口語そのままの短い、単なる会話を文字にしただけのものと「文章」を一緒くたにしている時点で品格が問われている事に気付かないのだ。。。
チャットを否定している訳では決して無い。あれはあれで意味がある。が、すべてにおいてそれが勝るわけでも無い。口語、短い文章、長文の使い分けが必要なのだ。それをそもそも知らない、必要なものとして生きてこなかった、という事なのだろう。だから冒頭の文言が出てくるのだろう。
今の日本語の教育は本当にどうなってしまっているのだろう。。。便利さは基礎があってこそのモノだ。基礎を築く前に便利さだけを追い求めては、なにも身に付くまい。。。
冒頭の文言を吐くような人は、手紙なんて書けないのだろうなぁ。。。
自分は、超短文で済ませるようにしてます・・たぶん。
だらだら書いてもね。
ま、分かる人が分かればいいんで。
でも、この去年、初心者の人に、超短文で書きこみしてたら、” 見あがるな!! ”、みたいな感じやられたので、干してやった。
Hidekyoさん、あけおめデスー。
理系の方特有の必要最低限のセンテンスな短文も好きですよ、私(^^)
言いたかったのは、長い短いじゃ無いんですよ、長い文も、短い文も、それを読み解く力が無いのを人の所為にするなって事です。あまつさえ「失礼」だとかお門違いな事言い放つんじゃねぇ!と。
ところで、「見あがるな!」ってなんだろう?と思ってググったら「宮崎弁」?なんですねー。うん、そーゆーお門違いな輩は干して良し!(笑)
を?!・・そうなんだ・・「見あがるな!」・・は、宮崎弁なんですね・・しらんかった!
「よだきい」、「てげ」、「だりぃ」、・・・とかが、宮崎弁かと、思っちょった。